屋久島旅行記 3日目  知覧という町を知っているかい編

そんなこんなで、知覧へ行くことはちょっとしたリベンジでもあった。
知覧ICで降り、知覧の町へ向かう。
ガイドブックには武家屋敷が大きく取り上げられているけれど、目指すのは特攻平和観音。
ICを左折して一直線、車は知覧の市街に入る。
左手側に武家屋敷があるみたい。
武家屋敷のエリアの片隅に富屋食堂を見つける。
ここにも後で寄ろう。
そのまま直進し、角に高校があるあたりで道なりに左へ進む。
そこから灯篭があった。
特攻隊員のために全国から寄贈された灯篭が。
知識として灯篭がずっと長い距離連なっていることは分かっていた。
実際に目にするとやはり驚きが先立つ。
この灯篭を1,036建立する予定だったと聞く。
特攻で散華された隊員の方々の御霊と同じ数だけ建立する。
慰霊の意味でも、目で見て理解する意味でもいい案に思える。
この1つひとつを人間だと考える。
すでに1,036超えているとの話だ。
これからも増え続けるのだろう。


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平和会館への道には桜の木と灯篭。
やはり日本の花といえば桜なんだろう。
桜の咲く季節にまた訪問したい。


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特攻勇士の像 とこしえに
この像が建立されたのが昭和49年。
敗戦により、いかに特攻隊員の立場が悪くなっていたのかが想像できる。
すべて国のため、家族のために行ったことなのに、
省みられなかい立場に立ってしまった彼らの思いはどんなだったのだろう。


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とこしえに 像のすぐそばで、像を見守るように建立された像。
母をモチーフにしているのだろうか。
帰宅後、ネットで調べたところ、やはりそのようで
母の像 やすらかに
命名されていた。
こちらは個人が寄贈したものらしい。
この像があることで1つの救いが感じられた。
印象深い像だった。


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灯篭群を抜けて、特攻平和観音。
昭和30年、特攻の母とよばれる鳥濱トメさんを中心に建立。
戦後10年かけようやく建立か。
観音菩薩如来になるため、人の魂を救う修行をしている。
そんな一文を何かで読んだことがある。
この場所にふさわしい仏様だ。


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すぐ脇に、お線香をあげる場所があったので、
1人1束ずつあげていく。
この場所にお線香が絶えることはないらしい。
それは本当に救いだと思う。
一過性の供養でなく、日本全国の人がずっと供養を行う。
死んでしまった人間は何も感じることができない。
そんな考え方もあるだろう。
でも、忘れられることで、彼らは二度目の死をむかえてしまう。
恒久に記憶に留めておくべきではないだろうか。
そしてこの慰霊は、荒れ果てた旧飛行場跡に毎日参った鳥濱トメさんがいたからこそ、
こうやって今でも続いている。


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そしていよいよ知覧特攻平和会館へ。
建物わきの木が見事に飛行機型に手入れされている。
入館料を払い中へ。
連休最終日、思ったよりたくさんの人が訪れている。
出撃・戦死順に掲示されたたくさんの遺影。
そして家族・知人にあてた直筆の手紙。
ほとんどが達筆で、残る者のことだけを思い書いた優しさに溢れた手紙。
辞世の句・絶筆。
すべてを見ることはできなかったけれど、
いくつかは見ていて涙が出そうになった。
どうしてこんなに優しさをもって人らが死ななければいけなかったのか。
なぜ、そんな時代があったのか。
今の自分たちは彼らの思いを、願いを引き継いでいるのだろうか。
正直な話、半泣きになった。
まわりに他のお客さんがいなければ涙がこぼれていただろう。
それくらい感じるものが多い場所だった。
たくさんのことを感じた。
1度は行くべき場所だと考えるようになった。
個人的には展示の半分くらいで、
キャパを超えたので、もう1度行ってもいいかなと思っている。


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境内で見つけた灯篭。
鳥濱トメさんにより寄贈されたもの。
どこかにあると言われたので探してようやく見つけた。
特に案内があるわけでなく、ただひっそりと他の灯篭に混じっている。


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車に乗り、ちょっと戻る。
町営駐車場に車を置き、ホタル館へ。
こちらは鳥濱トメさんの富屋食堂を復元された資料館になっている。
1階は特攻の母と隊員とのエピソードが展示されていた。
映画になったホタルやアリランに関する元の話もここに展示されている。
個人的には平和会館よりこちらの方が、
1人の人間として隊員を感じることができるよう思えた。
2階には鳥濱トメさんの資料館になっている。
彼女が生き残った隊員に言った言葉
「なぜ生き残ったか考えなさい。
 何かあなたにしなければならないことがあって生かされたのだから」
これによって生きる力を得た隊員は多いのだろう。
残されることが辛いこともある。