110918のつぶやき

ボランティアって言葉に抵抗を感じる今日この頃です。
いや。決してボランティアそのものを否定しているわけではないんですよ。
ボランティアの精神自体は素晴らしいものだと思うし、
その精神を多くの人が共有できれば素敵だとさえ思っています。
では、一体、何に対して抵抗を覚えるのか。
それはもっと限定した、日本におけるボランティア。
さらにそのごく一部に対してです。
う〜ん。歯切れが悪いな。


歯切れの悪い書き方の1つに、
うまく言える自信がないってのもあります。
ぼくの知っているボランティアなんてほんの一部の話だし、
間違った知識もあるでしょうから。
ここに書いてみて、考えをまとめてみようって目論見もちょっとあります。
あまり賢くないので、こうやって考えを書き連ねるってのも、
大事だったりするんです。


地域に貢献する企業。
そのキャッチフレーズのもと、人を出したり、資金を出したり。
下世話な話、資金ってのは手っ取り早い貢献です。
ただこの国では下世話すぎる、品がないと考えられる帰来があります。
そこにやってきたボランティアという言葉。
企業に属する人間がボランティアで貢献する。
こちらは資金とは違い、好ましい話として受け入れられました。
つまりお金を出す以上に、ボランティアの名のもと、
人手を出す方がプラスのイメージを企業は得ることができたのです。
でもって、気になっていることですが、
企業からボランティアの名のもと派遣される社員さん。
彼らには給与が発生しているんでしょうか?


発生していない場合、
彼らの意志における貢献活動なのでしょうか?
好き好んで企業の名のもとボランティアに向かう人は少ないのでは?
行くのなら個人として行きたい。少なくともぼくはそう考えます。
万が一に、命令なき命令(雰囲気など)で行かなければならないのであれば、
それは企業の利益を追求した、企業のエゴによる、
社員の犠牲のもと行われる最悪な貢献です。


発生している場合、
それは業務として行われるわけで、
ボランティアの精神性は若干否定されているのではないでしょうか。
正しい意味でのボランティア精神が育っているとは思えません。


まずは形だけのボランティアでもかまわない。
そういった考え方ができるのも分かります。
大企業だから○○せねばならない。
公務員だから○○せねばならない。
そういった考え方も理解できないわけではありません。
が、そろそろその形式から脱却しなければいけないのでは。
本当に必要な精神性を育てていかなければ、
発揮するための環境を作っていかなければ。
そんな課題こそが、ボランティアの次の課題ではないのでしょうか。


いけちゃんとぼく

いけちゃんとぼく

うん。なんとなく。